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私の故郷 豊中
本日は実家のある曽根まで帰っておりました。その帰り際にその隣の隣の町である庄内にて車を止めて、幼少の頃から慣れ親しんでいる商店街(写真)で1人寂しく食事をし、懐かしい道をうろうろと歩いておりました。
私自身は豊中第1中学出身で、曽根や岡町に住んでいる児童が通う中学なのですが、庄内といえば豊第7中学(及び6中、10中)の子たちがホームとしてその当時今大ヒットしております漫画、クローズのような世界が繰り広げられておりました。とにかく悪い町という印象が当時はありました。
様々な場所をうろうろしましたが、当時の殺伐した雰囲気が完全になくなっていました。本当にあの頃はヤンキー全盛の時代で、ヤンキーはモテてましたね。僕の当時の立ち位置としましてはヤンキーにどうやって取り込んでもらえるか、笑いの部分でどこまで深く入れるかということを常に考え、自分自身の学校における処世術を日々考えているような姑息な(笑)奴でした。
当時私は1中のラグビー部に所属しており、中学3年生の時には豊中選抜という選考会があり、例の7中は、当時の大阪全体のラグビーチームの中でも強豪中の強豪といわれるほど強いチームで、ほとんどのポジションが7中で占められるほど強かったのです。(しかもめちゃくちゃ怖かったのです。)
恐ろしい7中の子たちと豊中代表の座をかけて競い合うこととなるわけですが、そこで実際にコミニケーションをとるまで目が合えば殺されるといった訳のわからない情報もあり、本当に怖くて近づきもしなかったのですが、実際に触れ合うと、自分がいる中学のどちらかというと品のよい仲間よりも、自分にとっては7中のラグビー部の子達と肌が合うことに気付きました。
本当に仲間思いで、面白くて熱い生徒が多くて、中学3年の夏に選考会があり、それが終わって選抜チームで試合をすればすぐに中学ラグビーを引退するという最後のタイミングでそんな仲間に出会えて本当に幸せでした。
結局その当時の選抜チームには選ばれたのですが、補欠要員で最後の試合である花園ラグビー場での試合にも(たしか大阪ラグビーカーニバルの大阪府下選抜VS市内選抜だったと記憶します。)本来後半に出していただくはずが遅刻をし、ついたときには後半がスタートしており、先生に叱られ(というか呆れられ)試合がずっと終わるまで泣いていた記憶があります。
試合終了後、帰りのバスの中ではそれぞれ色々な高校のラグビー部顧問の先生から名刺を渡されていた光景を羨ましくみていました。そんな中、7中のメンバーが、「俺ら浪速高校にいくねんけど一緒に行けたらいいなぁ」と、声を掛けてくれて本当にうれしく、悩みましたが、両親から厳しく「公立しか許さん!!」と言われていたので後に断念しました。
くどくどと私のどうでもよい過去を綴りましたが、こういった若い時の一瞬の出来事さえも、現在における自分自身の考え方を構築する大事な要素になっていることに凄く気付きました。庄内の商店街をうろうろしていると、なぜかあの時の7中のメンバーの顔が目に浮かび、心地のよい気分になるのです。
来年日本ストリートダンススタジオ協会で是非企画したいと考えているのが、先日協会にご入会いただきました、ハッピータイムダンススクールの小川様とお話をした際にいただいた「各スタジオの子供達が一緒に泊まりがけで少し遠方まで行き、ダンス合宿ができたらいいですね。」という提案で、そのお言葉をいただいたときに私の中学の時の経験が頭をよぎり、それは素晴らしい!!と思いました。
いつもの環境では絶対に出会えない人と、ダンスという共通の趣味を通じて多感な時期に友達になることは絶対に大事だと思います。是非来年はバスを何台か連ねて素晴らしい思い出をつくる場を提供できたらいいなと考えてます。
それにしても本日庄内、曽根、岡町と、それぞれの駅付近をうろつきましたが人口減ってますね。線路も橋ができて地上にはなくなり、道路も整備されましたが、その分活気がなくなったように感じるのは私だけでしょうか。
昭和の最初の話で、「3丁目の夕日」というのがありますが、僕らが過ごしたこれまた日本が良かった時期である、1985年くらいの話を誰か書いてくれないでしょうかね。「バブルへGO」みたいな大人目線の作品ではなく、子供目線で是非書いてほしいです。それで当時の感傷に浸りたいですね。
とにかく久しぶりに地元をうろうろして様々な思いを感じた一日でした。
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